僕にビビッと来たのなら清野さんもまともじゃない(笑)
まずはおふたりの馴れ初めから。
清野茂樹(以下清野): 頼光さんの芸を、最初に見に行ったんですよ。
坂本頼光(以下頼光): 両国でしたね。江戸東京博物館! そのホールで行われた大正モダニズムとか昭和初期の大衆文化の会で、流行歌やダンスに混じって活弁もそのひとつとして演目で、私と先輩弁士の方が客演していたんです。それを清野さんが見に来てらしたんです。
清野: 2017年の春でしたね。その前から、坂本頼光という活弁士のお名前は存じあげていたんですけど、芸を見たことはなかったんです。これはやっぱり見ないといけないと思ってスケジュールを探していて、たまたま合ったのがそのイベントだったんですね。
頼光: 清野さんは僕の名前はどう見聞きしてらしたんですか?
清野: はっきり覚えてないんですけど、僕に頼光さんのことを教えてくれた人がいらして。なぜかというと、活動写真の弁士の方と一緒にイベントをやりたいと相談したからなんです。そのときにお名前があがったんです。
頼光: うれしいですね。
清野: じつはもうひとりの方のお名前も教えていただいて。それで、そのお二人が出られるイベントということで江戸東京博物館に見に行ったんです。そのときに、頼光さんとやったほうが僕は相性がいいかもなと思ったんです。
頼光: 清野さんが、なんとなく僕にビビッと来たということですよね。それはうれしいです。ということは、清野さんもまともじゃないってことです(笑)
清野: (爆笑)
清野さんは頼光さんのどのあたりがよかったんですか?
清野: ネタとしては別にクレイジーなものではなく、ベーシックな活弁をされてたんです。でも、その会は、映写が途中で止まったり、はっきり言って進行としてはスムーズじゃなかったんですが、そんな中でも頼光さんはいいなと思うところがあったんですよね。それで、そのときにはご挨拶などはせず、後日、僕のラジオ番組『真夜中のハーリー&レイス』にお呼びしたんです。なので、直接お会いしたのはその収録が初めてでした。
頼光: そのときもいろんな話をしましたね。その頃、僕は鬱がひどくて(笑)
清野: いや、ちゃんとしてらっしゃいましたよ。
頼光: そりゃそうですよ、番組ですから(笑)。いや、ちょうど私が自分で進めていた、自作アニメに活弁をつけるという企画が煮詰まっていた時期でもあって。だけど、語りというものをもう一度ちゃんと考えて、坂本頼光なりの話芸というものを確立していかんといけないんじゃないのかな、ということを思ったきっかけのひとつは、清野さんの番組に出たことだったんですよ。あのときにちょっと言葉に詰まるというか、七五調ですーっと出なきゃいけないところがうまく出ない瞬間があったんですね。それが活弁の本領であるはずなのに。なので、あれから話芸に対する熱情が再燃してるわけなんです。
清野: 本当ですか?(笑)
頼光: なんで疑うんですか!(笑)
清野: いや、うれしいですね。でも、僕のほうにも頼光さんに感ずるものがあったんですよ。自分でアニメを作るのって大変な作業だと番組内でもおっしゃっていて。その“道なき道”を歩んでる感じに、すごくシンパシーを感じるわけですよ。僕もある意味、おなじようなことをしていると思ってますし。だって、実況を舞台でやるなんて、誰もやってないし、やんなくてもいいことだし。
頼光: そう、そういう猪木イズムみたいな話をして、まったくその通りだよな、と僕も思ってました。
清野: だから、「いつか何か一緒にやるのではないか」と思って話してましたね。僕は早いうちから種をまくんです。
頼光: まさか今年、発芽するとは思ってませんでしたけどね(笑)

活弁は実況の先輩なんですよ
今回はどういうかたちでの共演が実現するんですか?
頼光: まあ、お互いの本分を披露しつつ、トレードもしようかなと。そこでの違いのそもしろさ、ですよね。まず、語り口も違いますからね。でも、ただそれだけで終わってよいのかというところもあるんです。清野さんは実況アナウンサーとしての発想や感覚で、映像に対して言葉を添える。私は、弁士としての立場から無声映画ではない映像に対して声をあてるわけですよ。
清野: 本当にどうなるか、わからないですよ。
頼光: 実験なんですよ。それを実況というべきか、説明というべきか。結果的にナレーションになってしまうかもしれないし。事前に映像は見ないでいきなり即興でやるっていうのもゾクッとはしますけどね、ガチンコでやるべきなのかどうかという問題は出てきますよね。
そこは、そのハラハラ感がおもしろいのか、お膳立てもあった上での芸としての凄みでやりあうのか、両方におもしろさがありますよね。
頼光: でもね、事前に映像を見ていたとしても、こういうこともありますよ。事前に「携帯電話は切っておいてください」ってさんざん言っておいても、携帯の着信音が客席から突然鳴ったりすることがあります。そこで、たまたま侍が振り向いたりしてるシーンだったら、「なんだ、今の音は?」「旦那、空耳ですよ。この頃は(携帯は)ありません」とかアドリブで言うだけでもお客さんは喜びますしね。そういう瞬間があるかもしれないしね。ある程度は決めておきますけど、本番はその通りはいかないですよ。
清野: それは前回やった落語家の春風亭一之輔さんとのセッションもそうでしたね。
頼光: そこがおもしろいと思うんですよ。余白があったほうが絶対いいです。
頼光さんがいらっしゃる活弁の世界でも、そういう考え方は結構ありなんですか?
頼光: 僕はそう思ってるんですけど、少数派ですね。じゃあ、他の人の意見はどうなのかというと、わかりやすくいうと、クラシックとジャズの違いですね。つまり、クラシックの人は、映像に対して譜面通りに活弁するんです。僕なんかはジャズっぽい。ある程度セリフは決めてありますけど、その日の気分とか調子によってふっと変わったりするし。おまけに私の場合は結構、毒が強いから、ジャズであり若干、デスメタル的な要素もありますがね(笑)
今も話に出ましたけど、一之輔さんと清野さんとの合体も、異種格闘技戦みたいでめちゃめちゃスリリングでおもしろかったんですよ。
頼光: でも今回は(実況と活弁は)もっと近い関係でしょ? つまり、弁士は、ニュース映像に語りで説明を加えるという意味で、かつてはアナウンサー的な職域を兼任していた時代が確実にあったわけですから。ラジオができるまでは、ニュースっていうのは新聞を読むか、映画館に行って映像を見るしかなかった。その音っていうのは、映像に弁士がつけるだったんですから。
清野: そうなんですよ。つまり実況だったんです。だから、ジャンルとしては、おなじ道の先輩なんですよ。落語よりは相性がいいんじゃないかなあ。
頼光: でもね、相性がいいようでいて、たとえば兄弟って仲悪かったりするでしょ? 縁がつながってる人同士って、こじれると大変なことになりますから(笑)
清野: 確かに確かに。そうなる可能性は秘めてますね(笑)。うまくいくか、ものすごく仲が悪くなるか。
頼光: 最初で最後になるかもしれない(笑)

活弁っていうのは日本独特の芸能なんです
ここで、活弁(活動写真弁士)という職業の特殊性について、ちょっとお聞きしたいんですが。
頼光: 活弁っていう職業があるのは日本だけなんですよ。外国は、音楽の生演奏はあるんですけど、語りまでは使われなかったんです。
清野: じゃあ、向こうのお客さんはどうやって話を理解してたんですか?
頼光: いや、たまに字幕が出ますから。それだけでいいんです。
清野: 日本人は何故語りが必要だったんですか?
頼光: 最初の頃に輸入された映画って、ストーリーも何にもなくて、単に工場に人が来るところとか、汽車が駅に入ってくるところとかをただ映しただけの短い映像があって、それを繰り返していただけだったんですね。そこに何とか説明を加えて「映画」として成り立たせていたのが弁士でした。たとえば、こんな感じです。もし、それが『テキサス州の駅』とかいうタイトルだったとしたらですよ。「アメリカはみなさまご存じの通り、我が日本国を上回る肥沃な国土を持った大変大きな大陸であります。すなわち汽車の数も我が国とは比べものにならないくらいございます。ただいま汽車が入ってまいりました。そしておおぜいの人が降りてまいりました。するとまた、おなじかたちの汽車がすぐ入ってまいりました」みたいなね(笑)
なるほどね。おもしろい(笑)。
頼光: そういう感じで、せっかく弁士っていう職業ができたんだから何かつけておけというか、日本人ならではのアレンジ精神というのもあったと思います。あとは、もともと落語があって、浪曲があって、講談があって、文楽の義太夫もある。つまり、語りの文化というのが完全に定着しているわけです。
清野: なるほど。そういう文化が向こうにはない?
頼光: いや、なくはないんでしょうけど、国土の広さの違いとか、そういうこともあるんでしょうし……日本の場合は、映画が最初に渡ってきたのが神戸で、関西圏でしょ? やっぱりサービス精神というのを尊ばれたというのはあると思いますよ。神戸は淀川長治さんが育った土地でもありますし。
清野: 僕も出身は神戸なんですよ。
頼光: ほら、つながった。
清野: あはははは。そうですね。すごい。
頼光: もし最初に映画が渡ってきたのが東京だったら、弁士ってついたのかな? そう思ったりしますね。京阪神って、サービスとか笑いに対しても貪欲ですよね。「これ、音ないやん? 音楽はついてるけど、誰かしゃべらへんの?」みたいなね(笑)
清野: そういうところはありますよね。
頼光: そこが弁士が必要とされたところなんじゃないのかな、と。
清野: 原点は神戸だったんですね。
頼光: とにかく活弁っていうのは日本独特の芸能なんですね。
なるほど、そういう意味でも実況のルーツでもある。
頼光: そう。テレビでもね、アナウンサーがいなくてスポーツ番組見るのって、意外と怖いでしょ? 詳しい人じゃないとよくわからないじゃないですか。
清野: 確かにね。「音がついてないとつまんない」っていうのもあるでしょうね。「会場は意外と静かですね」って言われることあります。それに、アメリカのプロレス見てると、実況はあるんですけど、そんなにしゃべんないんですよ。日本はやっぱり過剰なんです。入場シーンから事細かにしゃべるわけです。
頼光: それは、日本人の「語り」に対するあくなき執着であり、ある意味では向上心でもあり。
清野: わるくいえば、型にはめてるっていうことでもあるんですけど。
頼光: でも、日本人って定型とか典型とかに陥りやすいですけど、その中でそれを磨いていこうとする価値観があるんですよ。それって、すごくないですか? 僕の活弁も清野さんの実況も、文脈としてはそういうものの中にあるんです。
本当ですね。しかし、今回の対決は本当にどうなるのか、想像がつかないです。
頼光: まあ、いろんな現場もありましたけど、今回は極め付けかもしれないですね。
清野: 活動写真弁士というものが、多くの人にとって未知数というのもあるかもしれませんね。そこも大きいです。
頼光: 講談とも違いますしね。
清野: 弁士は、映像ありきじゃないですか。そこも違います。
頼光: そう。
清野: でも、実況とはそこが近いんですよ。やっぱり、僕らも何か起きていることありきで、そこにしゃべりをつけるわけだから。試合がないと実況もやらないじゃないですか。
頼光: 自分の間、っていうのはあるんだけど、まず映像が優先される。そこはおんなじですね。つまり、「もっとたっぷり間をとりたいな」とか「ここはしゃべりたくないな」みたいな場面でも、映画がそれを必要としてると思ったら、やらなきゃいけない。そういうところはありますよね。
清野: ありますあります。
頼光: あと、どちらの得意分野でもない映像を相手にやったらどうなるか? それはおもしろいかもしれない。清野さんの代名詞といわれるプロレスでも、その他のスポーツでもない映像を使った演目。私は、いわゆる古い映像でもなく、「~がありまして、そのとき~が出て来ました!」みたいな筋書きが通用しないような映像とかね。どっちの守備範囲にも該当しない映像って、どんなやつでしょうね? たとえば科学教育番組とかね?(笑)
お互いのジャンルから一番遠いところをやるというのは興味深いですね。いろいろ膨らみますね。
清野: しかし、さっき日本人はしゃべりということに貪欲だという話がありましたけど、その割には話芸というものについての理解がね、一般的にはさほどないでしょ?
頼光: 我々の先達もそういった面での努力というのは、怠っていたのかもしれないですね。後世まで、こういうことをやりたがるやつが出てくるとは思ってなかっただろうし。だいたい、昭和10年代くらいで、ほぼ絶滅した職業でしたから。弁士の人たちも長命された方は多いですけど、その人たちが全盛だったのって、映画がトーキーになる前ですからね。みなさんの前半生なんです。猪木さんでいうと、死神酋長だった頃です。
清野: よくご存じですね(笑)
頼光: 『チャンピオン太』(1962年からTBS系列で放映されたプロレス少年のドラマ。死神酋長は、若き日のアントニオ猪木が演じさせられた謎レスラー)ね(笑)。逆にいうと、自分が活弁士であったことなんてあんまりいいたくないって人もいたでしょうしね。僕も、たまに「活動の仕事してます」っていったら、「活動家の方ですか?」っていわれることありますから(笑)
清野: 平成も終わりに近づいてきて、そっちの「活動家」もあんまり意味が通じなくなってきてますが(笑)
頼光: 今、いろんな娯楽に満ち溢れている時代に、昭和の昔からあるアナウンスというものと、明治の昔からある活弁というものが、同じ箱で、同じ日にどういうふうな個性を提示できるのか? 吉凶はわかりませんが、楽しみですね。
清野: そうですね!
2018年6月13日 東京都渋谷区 kuramaejimushoにて収録
司会・構成/松永良平

坂本頼光(活動弁士)
1979年東京都生まれ。少年時代より水木しげるに私淑し、漫画家を志望する。中学の頃より映画熱に憑かれ、無声映画の説明者である活動弁士を志す。2000年に嵐寛寿郎主演「鞍馬天狗」前編の説明でデビュー。以降、時代劇、新派、外国喜劇、アニメーションなど約100本の無声映画を説明する傍ら、ナレーションや声優も務める。
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